さらば夢想の日々

脳をフル回転させ言うとんねん

暮れる

目を覚まして時計を見ると、時刻はもう夕方だった。昼寝のつもりが、どうやら本格的に眠りについていてしまったようだ。

何度か瞬きをして、重い目を擦る。色褪せたカーテンの隙間から漏れる夕陽に照らされて、僕の部屋はほんのりと朱く染まっていた。

二度寝する気にもなれず、かといって起きて何かをする気力も湧かずにベッドの上に横たわったままでいると、霧が晴れるかように、寝ぼけていた僕の頭が回りはじめる。

ふと僕は、部屋の外からパコン、パコンと音がすることに気がついた。今までの人生の中で聞いたことがあるはずの音だった。しかも、きっとそう少なくない頻度で。けれど、それが何の音かがすぐに分かるほど、まだ僕の頭は充分に動いてくれないようだった。

僕の部屋は社宅の三階にあり、窓からは社宅に隣接する広い駐車場を見下ろすことができる。僕は音が気になって、ベッドから自分の身体を引き剥がすようにして起き上がった。全身がだるく、そして重かった。それでも僕はよたよたと覚束ない足取りで歩き、カーテンと窓を開けてそっと外を窺う。

駐車場にはバドミントンをしている家族がいた。僕と同じ社宅に住んでいる家族だった。

まだ若そうな父親と母親、それに小学生くらいの姉妹がふたり。四人が輪になって広がり、白いシャトルを打ち合っている。シャトルを上手く打ち返せても、空振っても、みんな笑っていた。遠目から見ても分かるくらい、誰もが笑顔に満ち溢れている。賑やかで明るい声が、茜色の空に吸い込まれていくように感じた。

パコン、とその家族はまたシャトルを打ち始める。子どもが打った球に母親は追いつくことができず、地面に躓いて転びかける。そしてまた、家族は笑い声に包まれる。

僕はぼけっとそれを眺めていた。日曜日の夕方に、家族で仲睦まじくバドミントンをする。そんな光景はどこからどう見ても幸せな家庭だし、もっと言えば幸せな家庭でしかできないことだろう。

身体を壊して休職中である今の僕が、絶対に手に入れることができないような幸福。それを目の前の家族が今まさに謳歌している様を、僕は凍ったようにじっと見つめることしかできなかった。

やがて僕は窓をゆっくりと閉め、そしてカーテンを強く閉めて、ふらふらとベッドに戻る。

僕がベッドに倒れこむのと同時に「明日もやる!」と女の子の声がした。窓ガラスを通していてもはっきりと聞こえる、大きくて溌剌とした声だった。明日もやるのか、と僕は思った。


みんな幸せそうだったな。

部屋の天井を見つめながら僕は考える。

あの家族の青写真を、父親の気持ちになって想像した。仕事で増す責任。娘の反抗期。予期せぬ病気や事故。そんなことがあってもなくても、きっと彼らは幸せな道を歩み続けるのではないか。確証も根拠もないけれど、なんとなくそう思った。

みんな幸せになるんだろうな。結局は。

仕事も反抗期も事故も病気も、あの家族なら乗り越えてしまう。苦境や困難に直面しても、彼らは前を向いて歩き続けるのだろう。四人仲良く、手を繋ぎながら。

けれど、彼らの幸せを自分の幸せのように感じることができるほど、僕は人格が優れていない。

人には幸福になる権利がある。

幸福になるということは素晴らしいことだ。生きる理由にも、目標にもなる。

けれど、僕が他人の幸福を喜ぶ義務はどこにもない。


「クソがよ」

僕の口から出たのは、紛れもなく純粋な気持ちだった。純粋にクソだと思った。何もかもがクソだと思った。

あの家族の人生も、あの父親も、あの母親も、あの娘たちも、徐々に沈んでいく夕日も、僕の人生も、僕の目に映っているこの現実も、すべてがクソで、なんの価値のないものに思えた。

「クソがよ」

もう一度同じ言葉を吐いて、強く目を閉じた。クソが、クソが、と頭の中で何度も唱えながら。

そして僕は再び、深い眠気に意識を委ねる。

明日も迎えることになる価値のない朝を、僕はただ身を潜めるようにして待つことしかできない。


おわり カクヨムでやりなさい