さらば夢想の日々

脳をフル回転させ言うとんねん

襲う

「飯塚幸三! 飯塚幸三、見てるかァーッ」


半狂乱になりながら自転車のペダルをキコキコと漕ぐ。真っ赤な顔で、キモいくらい大量の汗を滴らせ、必死にママチャリを漕いでいる男性。他人の目からはそう映っているであろう俺の姿がどれだけキモかろうが、構ってはいられなかった。

みっともなく錆び付いてしまった赤黒いチェーンからは、カランカラン、と乗っている者を不安にさせる音が鳴っている。が、今の俺はそんなことでは怯まない。

飯塚幸三氏に会う。屈折した恋慕のようなこの想いは、もはや誰にも止められはしないのだ。

自転車を漕ぎ、俺は一路病院を目指す。もう少しだ。もう少しで会える。病院に併設された広大な駐車場をひた走っていると、一台の自動車が目に入る。
あれは、飯塚氏が所有するプリウスだ。低燃費。間違いない。確信した瞬間、俺の感情が爆発した。高燃費。ただ怒りに身を任せ、無謀にもプリウスに向かって自転車ごと突っ込む。
ここで死んだら、俺はそれまでの男だったということだ。雄叫びを上げ、目を閉じる。


「ウワーッ」


激突。身体に重い衝撃が走る。俺、死んだかもしれん。恐る恐る目を開けた。だが、予想に反して、自分の身体にも自転車にも、傷一つついていなかった。ただ、自動車が宙を舞っていただけだった。

俺は自動車を撥ね飛ばしていた。信じられない話だろうが、俺と、俺の自転車は、あの鉄の塊である自動車を確かに撥ね飛ばしたのだ。

人馬一体。乗り物の持つ性能は、乗る者に左右され、時には人智をも凌駕するのかもしれない。飯塚氏の乗るプリウスよりも、俺が今乗っている、イオンで買った9800円のママチャリの方が、遥かに強かった。

よくやった、今度お前のそのタイヤに好きなだけ空気を入れてやる。ブリジストン、あれ、ブリヂストンだっけ? なんで『ヂ』なん? そんなことを考えている間に、飯塚氏が入院している病院の前に着いた。病院内では自転車に乗ってはいけない。そのくらいの常識は持ち合わせている。俺は自転車を病院の前に置き、病室へと急ぐ。

彼の病室は病院の最上階にあった。廊下の窓からは周囲の景色が一望できる。特等席のようなものだ。これが”上級国民”と”下級国民”の差かよ、と舌打ちをする。

俺は思い切り病室のドアを開ける。白いベッドの上で呑気に寝ている人物は、件の飯塚氏だった。彼が俺に気付く前に、馬乗りになって組伏せる。


「俺を見ろ! 俺を見ろ!」


そう叫びながら、俺は力いっぱい飯塚氏の頬を殴る。振り上げた拳を叩きつけ、また叩きつける。そこに躊躇いなんてない。理性というブレーキはとっくに壊れている。

飯塚氏は俺から逃れようともがきながら、枕元にあったスマートフォンを掴む。何をする気だ。警察に通報するのか。

必死の形相を浮かべている彼がスマートフォンの画面に表示したのは『Facebook』だった。


「おい、ちゃんと俺を見とけや! 死の間際まで!」


もう一発、顔面を殴る。
とうとう飯塚氏は動かなくなった。乱れた呼吸を整えながら、俺はベッドの上から降りる。なんだか前にもこんなことがあった気がする。いや、きっと気のせいだろう。俺はしばらくの間、目的を成し遂げた達成感と、奇妙な懐かしさに浸っていた。

病院の出入口。俺を祝福して迎えるかのように、ゆっくりと自動ドアは開く。気分は祖国に帰還した英雄。ああ、これはとても良い自動ドアだ。満面の笑みを携えて、揚々と病院から出る。

そこにはあって然るべきものが無かった。病院の前に停めていたはずの俺の自転車が消えている。

そういえば降りた時に鍵をかけていなかった。俺は泣いた。